デザインとアートの違いについて改めて考えてみた
はじめに(簡単に自己紹介)
※この記事はGASHOO Inc. Advent Calendar 2017 12月5日(火)の記事です。
こんにちは、株式会社ガシューのCDO、白石です。
ウェブデザイナとしてキャリアをスタートして、現在は株式会社ガシューにてChief Design Officerという責任のある立場に従事させてもらい、ポートフォリオを通じたプラットフォーム型SNS「Gashoo」を運営しています。
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さて、本題(経緯)
美大・芸大に通う学生はもちろん、その過程を踏まずにデザイナとして従事する人でも必ず聞いたことであろう「デザインはアートじゃない」論。なんとなく言わんとすることは理解できるのだが、いまいち自分の中で納得できる形で消化できていませんでした。(様々なビジネスマンやデザインに携わる人間と話し、よりそう思うようになりました)
今日は、ビジネスのシーンの様々な文脈で様々な用途で使われる「デザイン」という単語と、その対になる形で扱われる「アート」との用法を整理し、同時にデザインに携わる自分のスタンスを整理する意味でも考えようと思います。ここでは、スタイリングに対するアプローチや具体的なテクニックについて言及はせず、あくまで「デザイン」と「アート」が別の文脈をもって使用される言語であることを再確認し、それぞれの役割に対する整理であることに終始します。
これまでに聞いた主張
デザインとはクライアントが存在するものである
デザインは自己表現の手段ではない
デザインとは問題解決の手段である
デザインとは今よりも良い状態にすることである
なんとなく、「デザインとは他者利益のために存在するものである」という主張が伺えるのですが、あくまでビジネスレイヤ上で語られる目的であって、デザインという行為自体が意味する全体像ではないような気がしています。というのも、アーティストにもクライアントはいますし、問題を提起するための「スペキュラティブデザイン」というものも存在しますし、デザイナがデザインという言葉を以て自主制作を行うこともあり、現在機能的に問題がないものでも、意識改革的に作られるデザインもあります。いわゆる商業的なコンテキストに則らない制作物を「デザインではない」と一蹴してしまうのも、いや、ちょっと待ってくれよ、と思うわけです。
様々な文脈で語られるデザイン
デザインという1つの単語が、別々の文脈で、別々の意味をもって語られることが僕(もしくは皆さん)の混乱を招いてるのかもしれません。ですが、1つの言葉である以上、共通項があると思います。僕の拙い経験上、今まで聞いたことのあるデザインの文脈は以下に分類されると思いました。(二番煎じかもしれませんが)
意匠的文脈
分かりやすく、美しいかどうか、という文脈です。よく「デザインがダサい」という話の多くはこれに該当するかと思います。デザインの業務に携わっていない多くの人が考える「デザイン」もこれに該当するのではないでしょうか。「これ、アート的要素含んでるじゃん!」という指摘は少々お待ちください。後述します。
道具的文脈
道具として使いやすいか、使い続ける動機になるか、という文脈です。Appleの製品が「デザインされている」という時に、かっこいい見た目以上に「直感的な操作が可能である」という文脈で言及しているデザイン関連記事が多くあるのはこれに該当するかと思います。行動経済学や認知心理学が注目され始め、主にユーザ・インターフェースのデザインの文脈ではホットな話題で、道具的な文脈で語られるデザインを多く目にする気がします。
市場的文脈
売れるかどうか、コンバージョンに繋がるかどうか、という文脈です、広告やランディングページの設計時によくこの文脈が登場します。
仕組み的文脈
「ワークフローがデザインされていない」や「働き方のデザイン」みたいな形でここ最近よく見るようになった文脈だな、と思います。
共通項を探る
こうして文脈を整理すると、それぞれのデザインの文脈が設定するゴールが異なっていることが分かります。意匠的文脈では「ビジュアルの精度」、道具的文脈では「生活への浸透・定着率」、市場的文脈では「売上・KPI(KGI)」、仕組み的文脈では「物事の整理・効率化」といったところでしょうか。
つまり、文脈のゴールを指して「デザインとは何か」を理解するのは難しいと考えました。だとすれば、そのプロセスに注目するしかありません。それぞれの文脈が目指すゴールと、それに向かうプロセスを個人的に整理したものが以下です。
- 意匠的文脈 既存の意匠のアプローチを踏襲または逸脱し → 高い専門性を持ったクラフトマンが知識と経験を持って精度の高い造形を創造し → できあがったものの発想・アプローチや造形の精度が手にした人の心を動かす(購買動機となる)
- 道具的文脈 ユーザージャーニー・人体工学・プロトタイプ(etc)などを通じた多くのデータを用いて、仮説検証を繰り返す → リリース後もフィードバックからの検証を繰り返しアップデートしていく → 自分の生活を豊かにするもの・便利にするものとして自分の生活に取り入れていく(購買・インストールなど)
- 市場的文脈 ペルソナ、セグメント、3C分析(etc)などを使い、利益が高くなるターゲットを設定する →A/Bテストやアナリティクス(etc)を用いて、もっともCVRが高くなるデザインに最適化させていく → 購買意欲がそそられた消費者が成約・購入する
- 仕組み的文脈 現状の問題点を洗い出し、整理する → 既出のケースなどを参考に最も無駄のない、効率的なプロセスを導き出す
上記は限定的なケースかもしれませんが、下記の共通点があると思います。
- 提供者は何かしらの価値を届けたがっている
- 価値を伝達すべき工夫が必要
つまり、プロセスに着目して、その共通点から「デザイン」の定義を導くならば、デザインとは、
- 届けたい人に
- 届けるべき意図や価値を
- 伝えるための手段(プロセス)
ということになります。僕はこの解釈で飲み込めた気がします。この解釈だと、デザインの造形性を否定することもなければ、利益の追求性を否定することもなく、本来の役割(用途)としての「デザイン」に言及することができました。
忘れてたけど、アートって何よ?
結論:これを語るのは難しすぎる
なんですが、頑張って考えます。ここからはすごく個人的な見解となります。
アートってよく分からないもの? = 皆にとってのデザイン?
僕の周囲には、すごくアートにすごく興味がある方と、全くアートに興味がない方がちょうど半々くらいいます。全く興味がないという意見の人たち曰く、「見方が分からない、鑑賞する意味が分からない」という人が多いです。確かに、アートと呼ばれる作品のほとんどが、制作意図やなぜこの形になったのか、というプロセスに説明がなく、意味深な造形物に意味深なタイトルがついた成果物だけを見せられることがほとんどです。
そして、少し前のデザインというものの立ち位置も、プロセスやノウハウが共有されることのない、いわば職人たちのブラックボックスであり、それが美的センスのみで成立しているものだと半信半疑で飲み込んでいました。そういう意味で、今でもデザインの造形性のみに着目され、「自分にはセンスないし、よくわからないな」というもので片付けられていた名残が、アートとデザインが対称性をもって語られている歴史なのかなと思います。
僕の解釈では、デザインは「届けるべき人にその価値を伝えるための手段(プロセス)」と前述させてもらったのですが、アートとは一体全体なんなんでしょう。
僕の敬愛するアートに造詣の深い方のほとんどが、「アートを理解する必要はない」と言います。彼らはアートが持つ「理解不能性」から自己の解釈で情報を汲み取って、「もしかしてこういうことなのかもな!」と思考するのが楽しいようです。僕もその1人です。言葉で伝達されなくても、「なんとなく喜んでいるようだ」「なんとなく悲しい内容だ」みたいな情報から、勝手に色々考えても良いみたいです。僕の解釈では、アートとは「考えるための道具」なのです。普段、意識することのない情報が、作品という形を借りて拡張されている、僕たちはアートを通じて再帰的に自分の思考に接続することができるのだと考えます。
結論
デザインとアートは全然違うと思うで!
最後は完全な主観になりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
次回、白石の更新は12月12日(火)予定です!🐶
余談
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